私はこれまでの人生、人に裏切られることが怖くて、常に斜に構えた人生を送ってきた。
素直に人をまっすぐになんて見たことがない。
斜めから、後ろから、いろんな方向から自分以外の人を見、そして自分でとことん納得してから人と接するようなことばかりだった。

なんでそんなことになったか?というと、冒頭にも書いたように、「裏切られるのが怖い」という思いからだけだった。

それがふっきれたのが、コンテンツを創出しているクリエイタの人たちとの出会いからだった。
創出されるコンテンツたちは、裏切ることはなかった。
もちろん、興味深いコンテンツを創出する人。というのはとても魅力的な人ばかりだったからだ。

それからの私。は、コンテンツに限らず、いいアウトプットをする人をそのまま信じるようになった。そのまま信じることができるようになった。
というのが正しいかな。

そうして、気がつくと、私は社長という立場になっていた。
自分の仲間として受け入れる人は、全て信じるもの。
そして信じるべきもの。と確信していた。
私は信じているよ。
それを個々に対しできる限りわかりやすい手法でできる限り個別に表現する。
でも、でも、それにいくら時間をかけても、実はわかってもらえておらず。
そして、私が必死になって、自分があなたを信じているんだよ。
と口にだそうが、相手には信じられない行動をもたらすことになるようだ。

人を信じること。
それで全てがはじまると思っている。
私は、自分の仲間になってくれた人を信じて、これまできている。
その思いは、必ずや、相手が私を信じている。ということにイコールなのではない。ということを感じる。

この衝撃的な顎はずれ事件は、私が社長になってから数回おきている。

ものすごくパワーを使うこの「信じる」という行為。
100万、500万の案件をまとめたり、こじれにこじれた案件を解消することなんて、痛くも痒くもない。さくっといけてしまう。
でも、人一人一人に対し信じてもらう。ということは、とんでもなく大変なパワーを使い、信じてもらえなかったときに、信じていない人が起こす行動というものは、これまでに私が使ったパワーの100倍以上を使って元に戻そうとももう戻れない。ということになっているものだ。

まわりくどいことを書きました。

私は意外とというか、まさしくアホなんだなぁと。
飼い犬にかまれる。とはこのことをいうんだなぁ。と思う今日なのです。

人を信じることにはとてもパワーを使う。
人を信じずに大きなものをまわすことなぞ、できやしない。
でも信じていたはずなのに、思いっきり信じられていなかった。
それを知ったときに感じる人への不信感。

私の心はどんどんとすさんでゆく。
そしてさらに裏を裏をと読む日々が深まり、必要以上の心労がかさみ、本来使うべきパワーをもっていかれてしまう。

もう、これ以上心が荒れるのはいやだな。
もっともっとピュアでいたい。
もっともっと素直に感情表現し、ウレシイ、楽しい、素敵だ。の日々にありたい。